重ねたもの
彼に私が重ねたものは、故郷でした。
高知県に住む彼は、息子さん御一家の家に滞在中に体の不調を訴えられ、検査の結果肺癌末期の診断を受けました。御家族の依頼で、訪問診療開始となりました。
初めてお会いしたときの印象は、精悍な体つきと対照的なあまり視線もあわさない緊張した面持ちでした。すでに癌の転移による排尿障害があり、訪問初日であったにもかかわらず、導尿処置が行われました。緊張されるのも無理もないことです。帰り際、「また来ます。これからよろしくお願いしますね。」と手を差し出すと、「こちらこそ」と、握り返して頂いた手に暖かいものを感じました。今年の4月、急ぎ足で散りゆく桜の季節です。
訪問開始後すぐ、予想外の事態が生じました。吐血、下血を伴う貧血の症状が現れました。刻々と変化する症状、現状を考え御家族との話し合いにより入院検査して頂くことになりました。今度は、私が緊張する番です。なぜなら訪問患者さんが緊急で入院するのは初めてだったのです。しかも私と言えば、救急車を依頼したこともありませんでした。先生は、他の患者さんに様態変化があり付き添えず、私にとって、まさに大役を任されました。慌ただしく、救急車の手配、同行、入院先への申し送りを済ませ、ひとまずは無事、入院して頂くことが出来ました。今思えば、御本人、御家族の不安からすれば私の不安など取るに足らないものでした。毎日の看護と言う仕事の中で、私たちは、こうして一つずつ経験し、患者さんや御家族に育てて頂いているのだと思います。その後彼は、経過も順調でまもなく退院されて来ました。御自宅に戻られ、私が手を差し出すと「またよろしく」と少しはにかみながら仰いました。今度は私が「こちらこそ」と。訪問看護の再開です。
状態が落ち着いている時は、よく故郷の話をされ「高知に帰られんかなー、先生に聞いてみて」などと度々口にされました。私には彼のお気持ちがよく解る気がしました。私も郷里から遠く離れて暮らしているからです。一時帰郷の交通手段、郷里での介護力、急変時の対応等々について、御家族と何度も話し合いを持ちました。しかし余命がないことを本人に伝えるかで意見が分かれました。帰郷したままここにはもう戻らないと言うのではないか、あるいは帰るだけで体力を使い果たしてしまうのではないか等、ある程度の危険を伴うとわかればわかるほど、帰郷は実現から遠ざかっていきました。
少しずつ体力の衰えが目立つようになり、帰郷は諦めざるを得ない状態になりました。御自身もお察しであったのでしょう、それから「帰りたい」とは、口にされませんでした。その代わりに「看護婦さん、ワシはもうあかんな」「もうそろそろお別れや」とポツリと漏らされることがありました。その度に私は、とても寂しく思いました。彼に同い年の郷里の父を重ね合わせ、一層強く感じたのだと思います。お嫁さんは、「看護婦さんにだけそんなこと言うんやね、ごめんなさいね」と私を気遣って下さいました。私は、お別れの時が、少しでも先であることを祈りましたが、訪問開始から4ヶ月経った8月、彼は静かに旅立たれました。最後の最後まで意識があり、皆さんの呼びかけに頷いて居られました。本当に静かな旅立ちでした。もうすぐ、彼は奥様と一緒に高知に帰ります。自慢の我が家に、やっと帰れましたね。
御冥福を心よりお祈り申し上げます。