芙蓉     (ふよう)

 

 

                                        

彼は、四国の方でした。岸和田の息子さんの家で、胸が重い感じがして脈が飛ぶからと、軽い気持ちで市民病院を受診されました。すぐに肺癌である事がわかり、そのまま入院、こちらでの闘病生活が始まったのでした。体格のいい、ダンディーな彼は、少し照れ屋でした。控えめな口調で、症状さえも全部を訴える事なく、自分の中に納めてしまわれるような方でした。肺癌の末期状態、大きな肺腫瘤に加え、既に身体のあちこちに転移していました。胸部の症状よりも、仙骨転移による左股関節周囲の痛みの訴えが強く、排尿の感覚が麻痺して、カテーテルで導尿しないといけない状態でした。

訪問診療が始まったばかりの頃、痛み止めを増量した途端、貧血と便潜血(+)という消化管出血を思わせる病態に陥りました。まだ病態がよく把握できていなかったため、入院の上検査を受けていただくこととなりました。結局、ストレスからくる腸管出血だけとわかり、入院中から家に帰りたいと言いつづけていた彼は病状が落ち着くとすぐ退院されてきました。でも、家といっても、息子さんの家、自分の本当の家ではない。予想外に居候生活が長くなり、周囲に気を使って過ごす毎日。息子さんご夫婦は、そんな事少しも苦になさっていなくても、迷惑をかけたくない気持ちはとても強いのでした。故郷の家に帰りたい、一時的でも、いや、もう帰ったまま老夫婦で静かに暮らしていたい。でもそれでは、息子さんの気持ちが納まらないのでした。

そうこうしている内に時間は過ぎ、次には体力がそれを許さなくなってきました。

告知とは、本当に難しいと思います。段々と歩けなくなり、座れなくなり、食べられなくなり、眠る時間が長くなっていきました。投薬と点滴で管理された身体は、確かに、強く痛まない、しんどくてもそんなに辛くない。でも少しずつ蝕まれ、自由が利かなくなっていくのがわかるのでした。その状態に不安、疑問を抱かない者はいないでしょう。でも、その原因を私たちに追求する勇気は、彼にはなかった。私たちがさせていただく処置は、彼の身体の苦痛は取り除いたかも知れない。でも、彼の心を満たしてはあげられなかった。思い切って四国へ向かうべきだったのか、私は機を逃がしたような気がしていました。正面から向き合う事を、私も逃げていたのではないかと。

静かに、いつもと何ら変わらない生活の中で、一瞬に最期の時は来ました。また眠りについたのかと思うくらい静かでした。何も語らず、何も聞かず、最期の瞬間まで、生きることを信じるしかなかった。私たちにこれ以上何ができたかは、きっと永遠にわからないのでしょう。でも、“彼の人生の最期を、彼と一緒に形作る事ができていたら、何かが違っていたかな”と、ふと考えてしまうのでした。そして、それはきっと、彼が私に遺した無言のメッセージだったと思うのです。


                                  

                                          〜 看 護 婦 手 記 〜

                                                                                                                                                            

重ねたもの 



 

 


 

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