笑顔
初めての訪問日、ただニコニコと頷いていらっしゃった彼の笑顔が、今でも目に浮かびます。それは、現れ始めていた痴呆症状の為だったのかも知れません。
しかし、日増しに進行していく痴呆は、その温厚そうな人柄を一変させてしまったのでした。徘徊、夜間の不穏状態が目立つようになり、薬剤での鎮静もままならない状態がしばらく続きました。
一日中24時間、奥様は彼に付き合い日々を過ごされました。奥様の口から出るのは、いつも決まって元気な頃の彼の自慢話です。「こんな働き者は、そういてない」とか「いい人やってんよ」…。そしていつも最後に、「看護婦さん、この人を入院させやんといてな。最後まで家に置いといてな。病院はいややで、可哀想やから」とおっしゃるのでした。奥様の彼に対する気持ちが悲しいぐらい伝わってきました。御本人様とはなかなかコミュニケーションが図れませんでしたが、私は奥様のお話から、彼に持った第一印象に納得するのでした。
そんな彼の病状が一転したのは、誤嚥による肺炎を起こしてしまったからでした。私は目の前にある痴呆症状に気を取られていました。日常生活で欠かすことの出来ない『食べる』ということの大切さ、危険さを、看護婦として十分に把握し、指導・援助が出来ていなかったのではないかと悔やみました。高熱が続き、点滴治療が欠かせない状態になりました。でも事態をわかっていない彼は、頼りの点滴を抜こうとします。奥様はもちろん、看護婦であるお嫁さんは、つきっきりで協力し看病なさいました。そんな姿に、私は励まされるような気持ちでした。看護婦として、何かもっとできる事がないかと、探す毎日でした。
献身的に尽くされる奥様に疲労の見え始めた頃、彼は静かに旅立たれました。奥様の望まれたように、御自宅で。そして、初めてお会いした時のようなとても穏やかなお顔で。