がめは餅

彼は働き盛りの年齢で自分の仕事に誇りを持っていた。仕事の話をする時、完成した製本を見せてくれた時、彼の目は輝いていた。「これが最後の仕事になってしもたなあ」とポツリとつぶやいた時、彼はまだまだ仕事がしたいのだ、生きたいのだと感じた。

「キセキの水」それは癌が治るという水らしい。「氷もその水で作ってる、味が違うやろー」と、かき氷やアイスコーヒーをご馳走してくれる。私には氷の味がよくわからない・・・。どう違うのだろー、と思いながらも「やっぱりおいしいね。水道水の氷と全然違うわー。」と合わせる (ゴメンなさい。本当は味なんてわかっていなかったのです。)「そうやろー。娘もこの水で肌もきれいになったし、便通もええんやって。」と返してくれる。水だけではない。水晶の玉や何かのエネルギーが出る機械など幾つかあった。これらが病気に効くか効かないかはわからないが気持ちが安定するなら否定はできない。信じる心は強い力を生むと思うから・・・。

彼は時に倦怠、痛み、不快などのあらゆる苦痛を怒りとして表出し家族や私達にぶつけてきた。朝の状態確認の電話で「朝のこの時間は一番しんどいんや、電話はやめてくれ!」と怒鳴る。状態が悪いのかとあわてて訪問すると「朝から怒鳴って悪かったなあ、しんどくてつい怒鳴ってしもた・・・。」と言葉少なく謝る。奥さんには遠慮がない分、もっと怒ることが多いという。「苛立ってしもてつい怒ってしまう、頑張ってくれているのに悪いと思ってる。」直接は言えないのだろう。後で奥さんに伝えた。奥さんは、時に別の部屋で今後を悲観して泣き、孫の誕生を素直に喜べないとまた涙した。仕事に看病に身体的にも精神的にも疲れが見えていた。奥さんの話に傾聴した。看病を娘さんがサポートし助けていた。奥さんは彼の前ではいつも笑顔で明るかった。

でも、こんな穏やかな日もある。家族のこと、孫のこと、趣味の釣りのこと、色々話してくれた。「娘はやさしいんやー、夜中も寝ずに背中さすってくれるんや」と。奥さんも娘さんも仕事をもっている。生活の為には休むわけにもいかない。仕事が休みの日は彼のそばにずっといる。そんな日は彼はとても落ち着いていた。病状が悪化してからは、奥さんは仕事の都合をつけて休み、看病した。

時には、言葉のいらないコミュニケーションで通じることもある。非言語的コミュニケーションだ。保清であったりマッサージであったりする。その他イロイロあるが。痛みと強い腹満のためしばらく入浴や清拭が出来ていなかった時、その日はまあまあ気分も良いとのことで足浴や清拭を行うことにした。足浴でいつもは冷たい足先が温まり、彼はとても喜んでくれた。「気持ち良かったわあ、ありがとう。」彼の言葉は心にしみた。

「死んだ後は・・・」なんて会話の中で、死という言葉を明るく冗談めいて話すようになった。このとき「大丈夫、治るよ!」などの無意味な励ましはいらない。明るく冗談で返した。彼も明るかった。でも生きたいという念、死に対する恐怖は、多かれ少なかれ旅立ちの直前まで持っていたのではないかと思う。それから間もなく歩行さえままならなくなり、しばらくして会話も出来ないくらい衰弱していった。

人は個人差はあるものの癌の告知を受けた時、死に直面する時、心理面において不安、恐怖、苛立ち、取り引き、受容など感情が変化すると言われている。順番は一方向に経過するのではなく、逆戻りしたり、飛び越えたり、人それぞれである。彼は、告知の時には既に手術の適応ではないほど進行していた。病気のこと、死のこと、仕事のこと、残してゆく家族のこと、お金のこと。心理面ではかりしれない葛藤があったのだろう。相手が今、どの心理状態にあるか洞察し、対処してゆくのも看護である。(とても難しいが…。)頭では、現在の状況を分かっていながらも文句をぶつけることもある。また、反省することもあるだろう、自然なことだ。私は彼になることは出来ない。でも病気に対して共にたちむかうことは出来ると思う。協力することは出来ると思う。またお互いに分からないことはお互いに分かろうと努力することもできる。

彼とのかかわりの中でいろんなことを学んだ。怒りをサラリと聞き流すことも大切。訴えに理解的態度で傾聴することも大切。あらゆるコミュニケーションで通じることも大切。安楽の工夫も大切。やさしい言葉より一発で点滴を入れることも大切。(時に難!)死という重い問題を明るく話すことも大切。そのほかいっぱいいっぱい…。ありがとうございました。学んだことが今後の仕事で活かせているか、空から見ててください。 

 

追伸:家でご馳走になった「がめは餅」すごくおいしかったです。あまりにおいしくて、薦められるがまま、大きいのを2ヶも食べてしまってすみませんでした。

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