まつばぼたん

痰が絶えず溢れ出し、ベッドサイドに置いた容器に吐きながら、その合間にやっと会話ができる。酸素を流用しているのに低酸素状態が改善せず、呼吸のたびに肩が上下する。肺癌の彼は、初めてお会いした時からそんな状態でした。以前から近くの内科の先生に診てもらっていたし、癌を見つけてくれたのもその先生だから、本当はその先生に診て頂きたかった…と、初回訪問の時にいきなり言われて、ずいぶん戸惑ったのを覚えています。その先生は24時間で対応できないからとお断りになられ、結局私が診せていただくことになったのでした。

初めは、いったいどこまで楽にしてくれるというのかといった態度で、なかなか甘えてくれようとはなさいませんでした。自分のペースを忠実に守り、今まで続けてきた家での生活パターンを頑なに維持しようと努力されていました。食 事は必ず3回、どんなに苦しくてもベッド上で起き上がり、時間をかけて自分で摂られました。会話も途切れ途切れなくらいですから、一口一口飲み込みながらも合間に痰を喀出しなければなりませんでした。身だしなみはきちんとされ、コップやティッシュの置く場所も、起きる、寝る時間も決まっていました。毎朝トイレまでは必ず伝ってでも歩いていきました。そのスケジュールの中に訪問を組み込み、いちいち時間がかかってしまう彼の生活を中断させるのは気が引けるくらいでした。しかし、少し手伝えば、もっと楽に保清が保てる事、もっと気楽に過ごせる事を知っていただいて、段々と信頼してくださるようになっていきました。

見るからに、まさしく教師だったという感じの彼は、そう見られることをとても嫌いました。生真面目な自分が嫌だったと言います。でも本来は社交家で多趣味でいらっしゃって、段々心を許してくれるにつけ、マンドリンやギター、愛車ランドクルーザーで山へ行った写真を持ち出してきて、楽しそうに、嬉しそうに説明してくれました。家人は久しぶりに笑顔で話す彼に驚き、彼の自慢のマンドリンを奥から出してきて、並べて見せて下さいました。

癌組織から湧き出してくる喀痰を、少しも少なくしてあげられることのないまま、彼は逝きました。さぞ苦しかったでしょうに、笑顔で「最期まで、家においてくれてありがとう」と、何度も仰いました。もっともっと沢山の思い出話が隠れているであろうマンドリンたちが、寂しそうに彼を見送っていました。

後日、御霊前にご挨拶に伺った時、お二人の娘さん達が、「こういう形で、満足のいく最期を迎えられた事を、大変誇りに、そして嬉しく思う」と、言ってくださいました。今後もこういう体制が維持されるように頑張って欲しいと、言ってくださいました。

心より御冥福をお祈り申し上げます。


                                 〜 看 護 婦 手 記 〜

                    ●マンドリン

 


 

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