百合(ゆり)

 

私達と同じ世代でありながら、闘病生活、早3年。それは私達にとってもかなりショックな事実でした。まさに、肺癌の末期状態。見つかった時にはもう手術のできない広がり方をしていて、その後、放射線治療、抗癌剤治療と、あらゆる先端医療を受けられました。そして誰もの予想を覆して、3年以上も闘病を続けていらした方でした。

 13歳の女の子と16歳の男の子のお母様、美しい妻。若い頃のお写真が自慢げに、お部屋に飾られていました。元気に子供達とはしゃいで笑うその様子はもの悲しくさえありました。癌が脳に転移し、長期にステロイド剤を服用しておられるため、副作用で美しいお顔が満月様となってしまっていました。

“先生は私を末期の末期と思っていて、どうせもうすぐ死ぬと思っているでしょうけれど、私はそう思ってないの。奇跡を起こすのよ。” そう言い切って、優しいお顔で微笑まれるのでした。そこには、余命1ヶ月といわれてから、3年も生きてこられた自負がありました。“できるなら、その時が永遠に来ない事を祈る気持ちは私も同じです。でも、もしもの時のために、まだ手足や頭の自由が利くうちに、夫や子供に残しておきたい何かを探していきませんか?事実として生命を脅かす状態は迫ってきています。”私は彼女が家族のために、何かしら生きた証を残す作業をする事を望みました。しかし彼女は、“私は他の人の事を考えている余裕はないの、自分の事だけで精一杯”とおっしゃったのです。私は医師の立場から病気に目をそむけるわけにはいかない。ましてや、同じ世代の女性という立場から、残される子供達がいるのならなおのこと、死に目をそむけるわけにいかないと思っていました。自分自身が消えるという事実以上に、子供達が自分という母親を無くし社会を生きていかなければならないという現実はもっと辛い事のように考えていました。だから何かしら子供達に残さないといけない、私は言いようのない焦燥感にかられていました。しかし、彼女はもっと冷静で、彼女が病気を否定し何が何でも生きてみせるという気概をみせるだけで、もうそんなに幼くない子供達にはいつか何か伝わるものだと、分かっていらっしゃったのかもしれません。

少し状態が落ち着いた時期に、外での昼食にお誘いしました。他愛のない話に談笑し、美味しいお料理に舌鼓を打ち、楽しいひとときを過ごしました。2回目は子供達も誘いました。素直に喜び、驚き、のびのび育ててもらったことがよく分かる彼らでした。

暫くして、最期の時は来ました。段々と、日毎に意識が低下していきました。目を開けると、絶えずお経を唱えていらっしゃいました。右下腿の褥創部に感染が広がり高熱が続き、力尽きるように心停止しました。

大好きだった真っ赤なスーツに身を包み、美しく死化粧されたお顔は満足げに微笑まれていました。凛とした、美しい百合の花を連想しました。御苦労様でした。短かったけれど、素晴らしい人生を生き抜かれましたね。


                                          〜 看 護 婦 手 記 〜

                                     ●同世代

 

 


 

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