椿   

                  

 

急に頭を小突かれ、胸ぐらを捕まえられそうになって、私は逃げるのが精一杯。「ちっとも治らないじゃないか。いったい何しに君はここへ来ているんだ。」かすれた声で、ありったけの力を振り絞って抗議する彼は、大腸癌末期状態。自分の病気について、前の主治医から再三説明を受けていたが、自分に都合の悪い部分は理解しようとはしない。必ず治ると信じ込んでいる彼には、病状の好転が見られないまま月日が過ぎゆくのは耐えられなかったのだろう。お腹中に転移した癌。治せるものなら…。でも、現状は厳しく、彼の期待には応えられないでいた。そして今日、感情が爆発した彼と、悲しい表情で彼を制している奥様に面する自体となったのだった。 “より良い死を迎えられるために”なんて綺麗事は、ただ“生きていたい”彼の前では何の意味も持たず、自分の無力さを思い知らされるばかりだった。

奥様は、状況をよく飲み込み、私達にとても協力的だった。そんなことがあった後も、ごめんねを繰り返し、それでも来てやって下さいと言って下さった。少しでも彼が快適に過ごせるようにと、あまりもの言わぬ彼の要望を汲み取り甲斐甲斐しく努力される。勉強熱心で、私達がする事をご自分でもやってみたり、ご自分から工夫したことを提案なさる。

彼の気持ちのわだかまりはずっと解決されないままに、すっかり在宅診療が確立された頃、突然コールがあった。水分しか受け付けなくなっていた彼に水を差し向けた後、少し咽せてからなんとなく反応がないと。いつもが大人しい彼だったから、それが呼吸停止心停止だと判るまで時間がかかったらしい。

彼らご夫婦は、ご長男を自殺で亡くされていた。目の前で電車に飛び込んでしまったという。「あの事を死ぬまで後悔していました。あの事がなければ、彼の人生はもっと変わっていたのに…。」ノートに書き綴った、判読不能な文字が何かを訴えていた。私達は、結局彼の何も知らずにいたのか。全然解ってあげられなかったのか。「あんな事言ってても、先生のことは頼りに思っていたようでした。いらっしゃる日にはきちんと身なりを整えて、待っていましたから。」後日、奥様はそう仰った。少しくらいはお役に立てたのかな。もっともっと永らえてあげられなかったこと、ホントごめんなさい。

心からご冥福をお祈り致します。

                                                   

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