紫苑 

 

胃癌は早期に見つかれば、たとえ胃を半分あるいは全部切り取ってしまっても根治する(完全に治る)事が多い。彼の場合もそうだった。75歳で胃全摘した彼だって、手術後だから十分に食べられないだけで、工夫しながら食事を摂っていけば元の体調に戻ったはずだった。切除した組織の検査から転移はないと言われたのだから。でも、心の不安定さが「完治」を急がせた。少し無理しても食べようとした。そして吐き続けた。食べられない食べられないと言った。点滴をして欲しいと言った。栄養剤が欲しいと言った。それでも、実際どんどん痩せていった。眠れないから、睡眠薬ばっかり欲しがった。私達がいくら元気付けても、病状を説明しても、彼は気持ちが癌の末期状態のようだった。術後フォローの受診や検査を極端に怖れた。いつ癌の再発を告げられるかと怖れた。

一人で生活するには、寂しがり屋すぎて無理だったらしい。世話好きな女の家に転がり込んでいた。隅々まできちんと手入れの行き届いた家の中で、二人で仲良く助け合って生きていた。機嫌のいい日は自転車で買い物にも出かけた。少しずつ運動もして体力つけていきたいと、笑顔で話してくれた。全てが順調な回復の経過をたどっていると思っていた。「点滴の回数、減らしていっても大丈夫よ!」食事を楽しんで欲しかったから…。医療処置になんて頼らないで、もっと自然な生活を取り戻して欲しかったから…。訪問看護の回数が1週間に1回になった頃、彼は自殺した。

一番克服しなければいけなかったのは、食欲でも体力でもなく、彼の心の中に燻り続けた“不安”だったのかもしれない。死を怖れているなら、なぜ自ら死を急いだのだろう?癌を克服しせっかく永らえた命。在宅でも闘病できるせっかく手にした環境。すぐ近くには、癌に蝕まれ、絶望の状況の中でどうすることも出来ず死にゆく人々だっているのに。もっともっと大切にして欲しかった。ホスピスと名の付く看護体制も現代医療も、時に無力となってしまうのか。悔しくてたまらない。

 

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