望み

68歳男性、胸膜悪性中皮腫にて左胸膜肺全摘出術後、肝転移、腹部に多発転移性腫瘤、余命数ヶ月と診断された彼は、平成1411月より当クリニックに紹介され、訪問開始となりました。

 初めてお会いした時、緊張された面持ちで私達を迎えて下さいました。痩せた身体に大きくせり出した腹部をしており、残された時間は残り僅かなのでは、と感じました。

 「入院していた時から、何回も腹水を抜いた。また、水が溜まって来たら抜いて下さい。」と何度も話されました。しかし、彼の腹部は触ってみる限りゴツゴツと岩のように硬く触れ、腹水ではなく転移した腫瘤によるものであると思われました。便秘、排尿障害などに悩まされ、その都度、「腹水を抜いて欲しい」と仰いました。その思いは日に日に強く、懇願されるほどになりました。このような状態での穿刺は、体力を消耗させ命を縮める結果になると思われ、先生は、ご本人はもちろんご家族とも相談され「一度、どこに水が溜まっているかCTを撮りに行きましょう、もし水が沢山溜まっているようでしたら針を刺して抜きます」と話されました。しかし、結果は私達の予想通り、腹部内は殆ど腫瘍に占領され、腸管も奥へ押しやられ、片方だけになった肺までも圧し上げられている状態でした。腹水など抜く程存在しないのでした。「腹水さえ抜いてしまえば楽になる、元気になれる」と信じてやまない彼に、この事実をどう伝えるべきか悩みました。まだ年齢も若く、自分の意志をはっきり持っておられるだけに、「病気は治らず死期も近づいている」ときっと悟ってしまわれると思いました。

 私達と奥様の出した結論は事実をありのままに伝えることでした。私達は彼の最期を、不信感に塗り固められたものにしたくなかったのです。「そうか」とだけつぶやき、目を伏せた彼の、その心情は察するには余りありました。

 その後、彼はもう「腹水を抜いてくれ」とは言わなくなりましたが、呼吸苦などの症状が強く現れるようになり、苦痛を取り除くための鎮静が施されました。それでも薄れゆく意識の中で苦痛を口にされることがあり、やりきれない思いを感じました。亡くなられた今も、私達が伝えた事実が彼の望みを断ち切る結果になったのではないかという思いに駆られ、辛い気持ちになることが正直あります。しかし、答えは出ていません。きちんと伝えたからこそ、最期まで私達に全てを任せてくれていたのかもしれません。これからも、その都度その場面で患者様と向き合い、答えを探していかなければならないと思っています。

 今は、苦痛のない世界へ旅立たれた彼のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

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