桃花

気持ちのやさしい、大人しい方だったのでしょう。怖がりで、石橋をたたいて渡るように慎重に生きてきたと仰っていました。まさか、自分がこんなに癌に苦しめられるとは予想もしなかったと。耐えがたい痛みが彼を襲い、「夕べもちっとも寝ていないんです、助けて下さいと!」と、奥様がクリニックに飛び込んで来られて、訪問診療は始まりました。奥様の悲壮な途方に暮れた表情を今もよく覚えています。

肺癌はリンパ管内播種が主で、特に大きな腫瘤があるわけでなく、見つかりにくいものでした。だから見つかった時にはもう体中に癌細胞が散っていて、骨転移、脳転移と次々に転移巣が見つかりました。中でも多発する骨転移による疼痛にはかなり苦しめられ、自暴自棄になり、何度も自殺しようとなさいました。死に切れなくて、一緒に死んで欲しいと奥様に迫り、怖がられたりしました。痛みは人格をも破壊していったのです。

痛みの緩和のために、神経ブロックを施行し、麻薬を処方していきました。細かい調整をしていくと、それだけでかなり生活の質が改善していきました。笑顔が増え、坐って好きなものも摂れるようになりました。その矢先、骨転移巣で右大腿骨が折れました。固定術は受けたものの、それからは寝たきり状態。同居する孫に囲まれた時間だけが彼の生きがいでした。生きたい、死にたいを口に出して繰り返す日々でした。

その日も、看護師やヘルパーさんに手伝ってもらいながら、顔を洗い、髭をそり、口嗽をして、髪をといて、体を拭いて、新しいパジャマに着替えて、いつもように始まりました。でもその日、彼の人生の幕が下りました。今日の続きがない事が不思議に思えるくらい眠るような最期でした。がっちりしていただけに心窩部が大きくえぐれて痩せこけてしまった身体は、痛々しいほどでした。よく頑張りましたね。傍にいることしか出来なかったけど、約束どおり最期まで傍にいましたからね。これでもう痛みに怯えることも、貴方らしくなくなることもない。安心してお眠りください。

心から御冥福をお祈り致します。

 

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