木蓮    

71歳、男性。癌でも、在宅での療養を支援してくれるクリニックがあると聞いて、息子さんが訪問診療の申し込みに来られました。

彼は今までに診てもらっていた病院にとても不満がありました。「みんななぁ、お腹がぷーとふくれて、息が苦しい息が苦しい言うて死んでいくんやー」と、病棟での様子を話してくれました。病気が肝臓癌なのですから、当然肝臓も大きくなってくるし、腹水もわいてくるし、最期のときにはお腹が膨隆し呼吸困難をきたすであろうことは、十分予想できました。「わしもあんなになるんかな…」宙を見つめて彼がぽつりとたずねました。答えられない私に、「先生、それだけは嫌やで。」と。私だって嫌や。でも、「今はしっかり食べて栄養を摂ること、あとはまかせとき。」そう言うしかありませんでした。

少しずつ大きくなってくるお腹とは、一緒になって戦いました。彼は食べられそうなものを家族にリクエストして、お口から食事を摂取する事に努めました。私は、全身状態を確認しながら、利尿剤とアルブミン製剤、肝庇護剤等を使い、水分バランスを考え腹水が増えないように最善を尽くしました。それでも一時的には体動さえ重苦しく感じるほど、お腹は大きくなりました。諦めずに私を信じて療養に励む彼に、逆に元気付けられるほどでした。もともと肝硬変がある上に、さらに肝細胞癌が増殖して大きくなり正常な肝臓は残り少なくなっていました。彼の体の中にはアンモニアがたまり、つじつまの合わないことを言い始めました。救急処置の後、解毒物質を腸から出せるように甘いシロップを飲み、アミノレバンの毎日の点滴は欠かせなくなりました。糖尿病もある彼は、初めこそ喜んでシロップを飲んでいましたが、やがてそれは苦痛になっていきました。

奥様は付きっきりで介護をなさいました。遠方に住む長男さんは可能な限り帰省され、近くに住む次男さん夫婦とお孫さん達は、常に顔を見せていました。たくさんの家族に囲まれ、羨ましいほどに賑やかな在宅療養生活。彼のベッドを囲んで、笑い声が絶えない毎日が続きました。

「息が苦しいから、もうわからんように眠らせて。」夜が十分に眠れなくなり、お孫さん達と他愛のない会話を交わした後も、どっと倦怠感が身体を襲うようになってから、眠って過ごせる様に薬を使っていきました。それでも小学生のお孫さん達は学校から帰ってくるなり、すぐに彼の傍へ行き、眠ってばかりいるおじいちゃんのもとで時間を過ごすのでした。

それから約1週間。その日、早めに連絡したにも関わらず、近くにある小学校からの孫達の帰りも待たずに彼は逝きました。「ウソでしょ!」と口々に叫んで飛び込んでしがみつく手は、もう彼らの頭を撫でる事もないのでした。静かに、ほとんど苦しむことなく息を引き取ったあと、少し皺の出来る軟らかいお腹を触って、私は真っ先に「約束は守れた?」と彼に言いました。「頑張ったなぁ」と抱き締めたい気持ちでいっぱいでした。

現代医学では救ってはあげられない命、ならばせめて苦しまずに。私はいつも患者様から教えられています。安らかに眠ってくださいね。心から御冥福をお祈り致します。

   

 

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