『珠のような清潔な肌』

            〜訪問看護婦M氏の手記から 〜

 


 

「珠のような清潔な肌」。これが、和室の真ん中に置かれたベッドの上に横たわる彼に、初めてお会いした時の印象でした。平成141月、にしだJクリニック開院前のことです。

開院後すぐに訪問看護させて頂く事になる為、1月中に喜多病院の訪問診療に同行させて頂いたのです。お互いの紹介を兼ねて初めて訪問した自宅での彼は、病院内で接したどの患者さんより清潔で、闘病中とはとても思えない、美しい印象でした。今でも彼を想う時、まず頭に浮かぶのは清潔に保たれた「肌」のような気がします。私は、その日のうちに、肌の感想を先生にメールしました。それ程印象深かったのです。

それというのも、看護学校卒業後14年の看護経験がある私ですが、在宅医療・訪問看護の経験はありませんでした。それまで私の中では、「在宅=家にいる患者さん」とは「外来通院も出来ない重症の闘病中の患者さん」というイメージで、保清などの看護どころではない状態を想像していました。予想からは程遠い、その綺麗な肌を見て、今からスタートする訪問看護に やりがい と同時に、不安を感じました。患者さんや御家族の、私たち看護婦に対する期待、要求がとても大きなものに感じられたのです。正直、どこまで私に出来るのだろうと思いました。

 そして2月、いよいよ開院。私たちの訪問看護のスタートです。その時点での彼の病状は、「桜の花が咲くのを見られるかどうか」という段階でした。人生の最期のお世話を任せようとする時、「訪問看護1年生」の私たちは、御本人、御家族にとってどれだけ頼りなく映ったことでしょう。実際に、私たちの訪問看護は、何もかもが手探り状態でした。

 それでも、毎日訪問するうちに、玄関を開けるときには「ただいま!」「お帰りなさい。」と言うのが合い言葉となっていきました。ご家族とより良い看護の方法を模索しながら、彼が如何に気持ちよく過ごせるかをいつも考え、私たちなりの関わり方、看護方法が確立していきました。

いよいよ最期の時が近づくにつれ、私たちの緊張は増していきました。もちろん御本人、御家族の不安は、それ以上であったと思います。最期の時には入院したほうがいいのかもと、ずっと悩み続けておられた御家族が、「本人の望むように、家で看取るつもりです。覚悟を決めました。」とお話ししてくれるようになった頃、次第に病状は悪化していきました。

ちょうどその1週間後、平成14年3月15日、午前2時「無呼吸の時間が長くなりました。」と電話が入り、先生と私たちは、駆けつけました。部屋に入ると、長女さんやお孫さんが必死に呼びかけて居られます。それまで「延命治療」をしない看取りを、私は見たことがありませんでした。きっと不安な顔をしていたのでしょう。先生の「大丈夫やからね。」と言う言葉が、ご家族と、そして「訪問看護1年生」の私たちに向けられていたように感じました。無呼吸の間隔は、長くなったり、短くなったりします。始めは緊迫した空気が張り詰めていた臨終の床で、いつの間にかベッドの周りに立ち尽くしながら、どんなに彼が勇敢に病気と戦い貫いたかなど、それぞれの思いを口にしていました。ベッドの周りに座り、みんなでお茶を飲み、泣き笑いながら。そして、徐々に無呼吸の間隔が長くなり、御家族のみんなの見守る中、午前4時45分、静かに永眠されました。

それは、私が今まで立ち会った「延命をあきらめた臨終」とは全く違っていました。生命は「消えていく」のだと感じました。新鮮な感覚でした。2週間後、桜の花はまるで彼の生涯を称えるかのように満開を迎えました。

この手記を記すにあたり、彼を取り巻く様々な事が思い出されます。初めての「在宅での看護」、その延長線上の「在宅死」の看取り、これらを経験させていただけた事、未熟な私たちに最後までお世話させていただけた事、私は、彼と御家族に心から感謝しています。本当にありがとうございました。

最後になりましたが、奥さんと一緒に、つきっきりで看病されていました姪御さん、彼女は、引退はされていますが、私たちの大先輩でした。私たちは、彼女を「ちっちゃい婦長さん」とお呼びして、本当にたくさんの事を教えていただきました。先日、彼の御霊前をご訪問したとき、「お帰りなさい」と迎えて下さいました。いろんな思い出話をして、様々な思いが込み上げて涙の止まらない私の手を握り、「これからも大変な事がたくさんあると思うけど、患者さんのために、在宅看護を頑張って続けて下さいね。」と励まして下さいました。

 

「ちっちゃい婦長さんへ」

感情の起伏の激しい私です。落ち込む事も多々あります。

また、元気を貰いに、会いに行きたいと思います。

その為にも、くれぐれもお体にご自愛頂き、いつまでもお元気で。

 

 

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