「死ぬ前に、夫婦２人で旅行をしたい。それもゆったりとした列車の旅がいいな。３月にもなれば春の陽気でだいぶん暖かいし、その頃にはもっと元気になれるようしっかり療養するつもりだし。」初めてお宅に伺ったとき見せて頂いたのは、旅行のパンフレットでした。その４日前、病院からの紹介状を持って、私という人物を当クリニックへ見に来られました。取りあえず合格だったのか、今後の治療や管理は任せると言って下さり訪問診療が始まりました。そして今、来客用のソファーで向かい合って、長旅を許可して欲しいと仰っているのでした。

人生の残りの時間をどうやって過ごすか。それはとても悩ましいものです。旅行先で行き倒れでも構わないとさえ思うこともあるでしょう。旅行はそれ自体楽しいもの、その準備に費やす時間や手間はさらに楽しいもの、ならば、たとえ結果として行けなくなっても、そういう風に時間を使ってもらえたら…。私は賛成しました。

しかし、１週間もしない内に病状は悪化しました。彼の胃癌は既に肺、肝臓、腹腔内のいたるところに転移していて、ベッドから起きあがることすら難しくしていったのです。

たった４０日間の在宅療養でした。賢い奥様は上手にお嫁さん２人を巻き込んで、十分な介護力のある環境を作られました。いつも彼を一人にすることなく、家族が協力し合っていました。その固い絆を満足げに確認しながら、彼は一人で旅立ちました。

　心からご冥福をお祈り致します。