睡蓮

右乳房切除術の術痕から体表に出てきた乳癌は、42歳の彼女の美しい身体を覆い尽くす勢いで広がっていました。「癌の病巣が目に見えたら、こんなにもすさまじいものなのか」と思うくらい、右肩から右上腕、右前胸部、背部の皮膚が剥け、溶け出した溶岩の様な状態になっていて、その表面からはじわじわと、1日に2リットルもの浸出液が溢れ出ていました。触ると簡単に出血し、激痛が走りました。身体と腕の間を開ける事さえままならない状態で、日に2回は必要なガーゼ交換は、いつも二人がかりでもかなり時間がかかりました。体内の電解質バランスは崩れ、低タンパク血症や貧血と、検査データ上は驚くような値ばかりでした。妹さんが看護師でなければ、家に連れ帰ってくるという決断は出来なかったであろうと、今も思います。ご両親は、娘のその痛々しい病巣を見るのが忍びなく、家にいてもなお、近づこうとはしませんでした。しかし家での療養が、如何に身体にいい効果をもたらすかを実証するかのように、彼女はよく食べ、よく笑い、みるみる内に元気になっていかれました。

中学生、高校生の娘達は、お母さんが笑うようになったと大喜びでした。ベッドに腰掛けて待つ母のもとに一目散で学校から帰り、学校での色んな出来事を報告しました。この調子なら、治ってしまうかもしれないと考えた夫は、何か最新の抗癌治療法はないか探し始めました。両親も、彼女が食べたいというものは何でも探してきて、手作りして食べさせました。彼女の出したお料理のオーダーがその日の家族全員のメニューになりました。

それでも、その間に皮膚の病巣は容赦なく進行し、静かに広く深くなっていきました。ある日、「体調も整ってきたし、そろそろ抗癌剤に耐えられるかも…」と彼女は言いました。いまさら抗癌剤治療をしてもいたずらに体力が消耗するだけでした。しかし望みをつないでいる彼女の気持ちも大切にしたいと思い、胃薬を偽って処方しました。滲出液を補うため、24時間持続で点滴しアルブミンを入れ続けました。貧血が進み、輸血もしました。

死は突然訪れました。深くなった傷のあちこちから血管が顔を出し、出血が止まらなくなりました。間直に迫る死を前に、彼女は子供達を遠ざけ、夫に言いました。それまできっと怖くて口に出せなかったお別れの言葉と感謝の言葉と一緒に、「私を愛しているなら、私を殺して!」と。療養に耐えながら、きっと想像も出来ない葛藤が彼女の中にあったのだと思い知らされました。そして叫ぶように「私は幸せだった!」と言った後、意識がなくなりました。おそらく脳出血でした。

臨終を告げる言葉の後、娘達は泣き叫びながらも、「忘れないから」「ありがとう」と言いました。そして、私に向き直り「ありがとうございました」と言いました。しっかり躾られた、彼女が残した宝物がそこにありました。

           

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