喉頭切除している人は声帯が奪われるので、声が出ません。肺への空気の出し入れは途中に開けた気管切開孔を通って行われますので、話せないだけでなく、鼻を空気が通らないため匂いが全くわからない、すすって食べることができないのです。食欲が落ちてしまった今、その弊害は意外と大きく、肺癌末期を迎えた彼の生活の質を落とす原因となっていました。
 彼は気道の振動を声に変える発声器を使って、自分の病歴を事細かに話して下さるきちっとした方でした。やっと喉頭癌を克服し、74歳、まだまだ元気に活動出来るはずなのに、寝込んでしまっている自分がふがいない。せめて排便くらいは自力で、食事くらいは人並みに…と涙ぐましい努力をする方でした。今回の病気は肺癌。肝臓にも副腎にも転移していて、切除の対象ではなくなっていました。今までにも、糖尿病や高血圧があって定期薬を飲み、インスリンの自己注、気管吸入等をしていました。それを身体がしんどくなってからも欠かさない方でした。生真面目なだけに、それが続けられないときはまるで何もかもが終わってしまったかのように悲嘆にくれるのでした。上を向いてベッドに横たわったまま、私達の清拭の申し出も丁寧にお断りになるのでした。
 足の不自由な奥様と二人暮らしでした。近くに娘さん夫婦が住んでいてかわいい孫が来てくれます。息子さんは医師でしたが、遠方にお住まいでした。つましく誠実に生きて来られたのでしょう、いつも礼儀正しくて、体を動かせば息が切れてしんどいはずなのに、訪問診察のたびに必ず向き直り挨拶して下さいました。
 その日、看護師が身体のケアを終えて家を離れた直後、呼吸停止の連絡が入りました。看護師と入れ替わりに遊びに来た娘さんと孫さんにずっと手を握られながら、彼は旅立ったのでした。

プリムラ

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