76歳男性、肺癌。発病より7年経過、この間二度の肺切除の手術を受け、現在ターミナル期。

このような紹介状を持ち、当クリニックにご長男のお嫁さんが面談にお見えになったのは、ゴールデンウィークに差し掛かった426日土曜日のことです。お嫁さんは、「肺炎を繰り返しており、主治医の先生に家に連れて帰るなら今しかない、と言われました。どうしても早く連れて帰りたいのですが。」とおっしゃいました。先生は、状況を考え「状態の把握が出来ないまま連休をご自宅で過ごされるのには、ご家族の負担も考えると不安が残ります。」と退院の再検討をお話されましたが、「本人は、とても家に帰りたがっています。今しかないのだったら一日も早く帰らせてあげたいのです。」と繰り返されました。その気迫に不思議な感覚を覚えました。というのも御紹介頂く患者様やご家族皆が、自分たちの意思で退院、在宅療養を希望する訳ではありません。急性期治療の対象でない癌末期の患者様は、病院に入院していられず退院を迫られ、ひとつの選択肢として在宅療養を勧められるというのも現状なのです。しかし、彼のご家族は、積極的に在宅療養を希望されていました。

「家にどうしても連れて帰りたい。」この言葉が、私たちを動かしたのです。「土曜日なのでレンタルベッドの手配がつかないかもしれません。ベッドさえ間に合えば、月曜日に退院。」との方向で慌しく準備が始まりました。幸い、レンタルベッド、酸素濃縮器の準備も整い、428日月曜日、ご希望通り退院の日を迎えることが出来ました。

初めてお会いした彼は、精悍な体つきで、とてもターミナル期の患者様には見えません。退院できたこと、家に帰れたことを素直にとても喜んでおられました。あまりのお元気そうな姿に「病院の主治医の先生は、少し病状を厳しくお話されすぎたのでは?」と思ったほどです。

しかし、安心したのも束の間、病状が落ち着いていたのは、2日間だけだったのです。それまでうそのようになりを潜めていた痛みや呼吸苦が彼を襲いました。すぐにモルヒネ筋注などの対応が取られましたが、それにも増してご本人の不安は強くなっていきました。頻繁に電話が入り、日に何度も訪問させて頂きました。その度に、「ありがとう、すぐ来てくれるから安心や、楽になった。」とおっしゃいます。傍目にも訪問毎に弱り小さく痩せていく様子が分かりました。きっとご自分でも分かっていらっしゃったのでしょう、残された時間がほんの僅かだということを。

そんな彼を傍で見ていたご家族は、退院当初「家での看取りは不安が大きく自信がない。最後は病院に」と考えておいででしたが、頑張っていらっしゃる姿を見るにつけ、「このまま家で最後を迎えさせてあげたい。」と決心して下さいました。ご本人、ご家族の不安を少しでも和らげる為、頻回の訪問は続きました。

しかし、ご家族の願い虚しく、退院から6日目、56日土曜日、彼は大好きなご家族に見守られ、静かに息を引き取られました。

 

 

 

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