『笑顔』

   〜 訪問看護婦T氏の手記から 〜

 


 

 初めて彼にお会いしたのは、新年が明け、すぐのことでした。

 新しい訪問看護婦として、家族に受け入れて貰えるのかどうかという気持ちが一杯で、とても不安な中、私の訪問看護は始まりました。初めて一人での訪問。怖気付いて、なかなか声が出ないけれど、意を決して「おはようございます!」と部屋に入っていきました。第一印象は、はっきり言って「気難しそうな人」でした。ところが、「おはよう。待ってたんや!」と、新聞を閉じながら顔を上げ、優しそうに、如何にも嬉しそうに、微笑んでくれました。私は、その笑顔でたちまち不安が消え、救われた気持ちでした。

 訪問看護はもちろん、病棟経験のない私にとって、彼の処置は初めての事ばかりでした。不手際も多かったでしょうに、家族の人々は腹を立てるどころか、今まで自分たちがしてきた事を親切に教え、助言して下さいました。拙い私を支えて下さいました。

 毎日の訪問。ある日いつもの時間より遅くなった時、「遅くなってごめんね。」とあわてて部屋に入っていくと、「良かった、あんまり遅いので、事故でもしたんやないかと心配してたんや」と言ってくれました。彼自身、人のことを心配する余裕などないほど、体がしんどいはずなのに、私のことを心配してくれ、感激すると同時にとても切なくなりました。何をしてあげればいいのか、どうすれば残された時間を少しでも有意義にすごさせてあげる事ができるのか、痛みの無い、少しでも楽しい時間が作り出せるのかという思いで一杯になりました。

 また、こんな事もありました。その日は、朝から嘔気、嘔吐があり体調がすぐれないと家人より連絡がありました。訪問すると、顔色も悪く、難しい顔をしています。「おはよう、体の具合どうですか?」と声をかけると、「どうもこうもない。しんどいに決まってるやろ!」と強い口調で吐き捨てるようにおっしゃいました。私は返す言葉が見つからず、他愛のない会話でかわし、ただ、ただ、処置をすすめることしか出来ませんでした。自分の無力さが情けなくて情けなくて、仕方がありませんでした。そんな想いをよそに時間だけは過ぎ、気が付くとお昼になっていました。「終わりましたよ!お疲れさま、お昼になっちゃいましたね、お腹すいたでしょ?」と言うと、「看護婦さんもお腹すいたやろー?一緒に食べようや。遠慮はいらん、家にきたら自分の家やと思ってくれたらいいんや。」と、奥様に私の分の食事も用意させました。誰かと一緒に食べれば、少しでも食が進むのではないかと思い、一緒に頂くことにしました。お盆の上に、細かく刻まれたお漬物、のり、煮物が少しずつ入れてあり、大きいお皿に奥様の手作りのシチューが美味しそうによそわれています。「じゃ、遠慮なくいただきまーす。」と、私は食べ始めました。すると、彼は「美味しそうにたべるなぁ!美味しいか?」と微笑みながら、ゆっくりとスプーンを口に運び、「旨いな、看護婦さんと一緒に食べたら」と、少し食べにくそうにしながらもなんとか全量摂取されました。後で嘔気、嘔吐が出るのではないか?胸がつかえる等の訴えがあるのではないか?と心配し、ない事を祈りながら食べたせいか、正直いうとお料理の味は覚えていません。奥様はあまりに美味しそうに食べてしまわれたのを見て、「これから看護婦さんにお昼に来てもらって食べたらいいなぁ」と、冗談交じりに言ってくれました。凄く嬉しかったのを覚えています。その後も、幾度か一緒に食事をさせていただきました。けれども、徐々に食欲低下が見られ、ほとんど食べ物が喉を通らなくなり、日毎に痩せていかれました。その姿を見ているのが辛く、処置をしながらも込み上げてくる涙をこらえるのに精一杯な日もありました。看護の奥深さ、難しさ、そして限界を思い知らされました。

 彼の看護をさせてもらうようになって、約2ヶ月と少し経過した頃、様態が少しずつ悪化し、眠って過ごす時間が多くなっていきました。そんな時、先生から「あと1週間ぐらいかなー」と告げられました。「自分たちだけで、最後まで家で看取れるのだろうか」という不安と、「この時期に、何かをしてあげられないだろうか」という焦りで一杯でした。でも、そんな事を考える暇をも与えてくれず、彼は静かに息を引き取られました。

 振り返ってみて、様々な良い勉強をさせてもらった事は言うまでもありませんが、その中でも患者本人や家族との信頼関係がいかに大切であるか、信頼関係なしでは、充実した訪問看護は決してありえないということを十分に勉強させていただきました。彼に対して、自分自身の中では、十分に看護が出来なかった点もたくさんあったと思います。が、彼から学んだ多くのことを、これからの看護に役立てて、一人でも多くの患者さんと良い関係を築き、充実した看護が提供できるようになりたいと思います。

〜彼に心から感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます〜

 

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