焦り            

 

 

81歳男性、脳梗塞後遺症による右片麻痺。

私が訪問看護に伺うようになったのは、発病から7年目、当クリニックが開院した平成14年2月のことでした。彼は約4年前から訪問診療を受けておられました。不自由な身体でしたが、デイサービスやショートステイなど介護保険を上手に利用し、ヘルパーさんと奥様を伴った車椅子での散歩を何よりの楽しみとして居られました。私どもの訪問看護といえば、状態も非常に安定していたこともあり、2週間に一度の頻度でした。

その時訪問看護師1年生の私は、正直な気持ちをいうと大変な焦りを感じていたのです。なぜなら、癌末期の患者様や急性期の患者様なら私達が為すべき事、また要求される看護が自ずと見えてくるのですが、彼のような慢性疾患で非常に有意義にご自宅での療養されている患者様をお世話する場合、「看護師さんが訪問に来ても一緒や。血圧測ってもらうぐらいや。」と言われるのではないか、2週間に1度の訪問看護でいったい何が出来るのか、また必要性を感じてもらえるだろうかと内心不安に思っていたのです。

やはり訪問当初は、今から思えば私が身構えていたからでしょう、あまり会話も弾まず本当に「血圧を測るだけ」の看護であったように思います。このままでは、自分の看護そのものを見失うような気がしました。そこで、何度目かの訪問の折、いつも側に居られる奥様に「お父さんのような落ち着いた患者様でも私達看護師にお手伝いできる事があると思います。その何かを今探しています。」と正直にお話しました。すると奥様は、「あなたの事を“血圧測りに来るだけの看護師さん”とは思わないですよ。来てくれるだけで何故か安心出来るから。」と思いもよらず仰って下さいました。その言葉をとても心強く感じたことを覚えています。御家族に励まされるなんて、少し情けないような気もしますが、そこは根が単純な私のことです。それからは少し肩の力も抜け、ご本人、奥様と色々な話をしながら「手足の冷たいのを改善するために」と足浴や手浴を取り入れたり、「食事の時に少しムセが見られますね。」と誤嚥の可能性を話し、とろみを付けた飲水を提案したりしました。奥様は、「お父さんのためになるなら。」「少しでも快適に過ごしてもらえるなら。」と私の提案を快く受け入れ、実行して下さいました。奥様と私のそんなやりとりをみて、ご本人もすっかり心を許して下さり、「もっと元気になったらオーストラリアに一緒に行こうな、釣りもいい。パチンコも行こう!」と仰って下さるようになりました。私は、やっと本当に受け入れてもらえた嬉しさで舞い上がり、これから先、何年もお世話させて頂けると信じて疑いませんでした。

しかし、昨年暮れ頃、奥様より「なんか元気が無いような気がする。」との声が聞かれました。発熱などの症状も見られず経過観察という事になりましたが、年が明けて早々に「やっぱり元気がない、一度来て欲しい。顔を見てくれたら安心するから。」と電話が入りました。駆けつけると、血圧などの数値は全く正常です。ほっとした私に奥様は、「いつも看護師さんがお父さんが痰を出すと、汚いのに見てたやろ?私も気を付けて見るようにしてた。今日出した痰は、これです。」とティッシュを差し出されました。受け取り広げて見ると明らかな血痰です。慌てて先生に連絡を取り、その日の内に市民病院呼吸器科を紹介受診していただき、レントゲンやCT等の検査が行われました。結果は、「限りなく黒に近い、白」。肺癌にほぼ間違いないということでした。病院へ同行していた私は、不安そうなご本人以上に、最悪の結果を悟られまいとする奥様の懸命な態度に、心打たれました。

奥様や御家族が出した結論は、苦痛を伴う侵襲的な検査や治療は行わず、最期まで家で過ごして貰うというものでした。それからの奥様は、一時も傍らを離れず、これまで以上に献身的な介護をなさいました。彼は、そんな奥様を気遣いながら、遺される奥様を心配しながら、五月晴れの早朝、静かに、本当に静かに旅立たれました。

訪問看護に携わるようになって、1年半。私にとって、長期療養の患者様を在宅でお見送りするのは、初めてのことでした。この手記を記す間にも、様々な出来事と共に当初の「焦り」を思い出しました。私のそんな気持ちを汲み取り、受け入れて下さった事、そして最期までお世話させて頂けたことに深く感謝申し上げます。本当に有難うございました。

 

                               戻る